この日以降か? 金子文子と朴烈、富ヶ谷に移る

  東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474 番地。現渋谷区富ヶ谷1-28 NTT裏辺り 

『現社会』第3号1923年3月15日 発行
 世田谷池尻412「××」烈生  註 タイトル、本文テキスト全て潰れていて不明。「×もなし」
「働かずにどんどん食ひ倒す論」朴烈、後に獄中で執筆する同タイトルの論文とは内容が異なる 「在日鮮人諸君に」金子ふみ 「朝鮮○○記念日」金子ふみ「破れ障子から」文子

 15日に発行された『現社会』第3号は旧住所のままである。
印刷屋に入稿、校正直後に引越しの可能性もわずかにあるが、
16日以降に引越しというのが妥当な判断と思われる。
 
 富ヶ谷のかの地は四度、訪れている。
崖地の下に位置していたようだが、崖を上がると代々木が一望できる。
代々木練兵場の一部を「明治神宮」に造成したのは何時か、調べてい
ない。(林は一部は元々残されていたのか未調査)
 いずれにしろ現在よりは格段に眺めがよく、渋谷から新宿方向は一望
のもとであったろう。
 
 管野須賀子の墓碑がある正春寺は富ヶ谷から望めば代々木の「反対側」
に位置している。
 金子文子は管野須賀子が眠っている寺と承知していたのであろうか。

 金子文子の獄中からの手紙が雑誌に掲載され残されている。
9月1日付けの手紙に崖上からの眺めが記されている。

 今日は九月一日──

震災のあったあの日はあの家のあの草原に、積み上げた畳の上で、てんでに訳の解らぬことを言い合い乍ら、なけなしの米を炊いて食べていた。貴方と××兄と××さん、それにPと妾だったね……隣の中学生が、ぼんやりと立って聞いていた。
 土手下で、身重の女が、大正琴を弾いていた、広い草原の彼方には、真紅な稲が燃えていた、月が、夕焼けの太陽のように変って……あゝ物凄い黄昏だったね……
 でも何んだか馬鹿に、遠い遠い昔の出来事が、夢の中の出来事の様な気がする……  


1927年『黒色青年』8号消息欄 
■関東黒色青年連盟は、去る3月16日、今将に米国の最も惨忍なる手段によって、死刑に処せられようとしている伊太利の無政府主義者、サッコ、ブァンゼッチの両君を即刻釈放せよと、決議文を携えて米国大使館に殺到した。