2006-01-01から1年間の記事一覧
1923年9月2日朴烈、四谷の布施辰治弁護士を訪ねる
1925年 8月31日 火曜日 晴 古田大次郎獄中手記より「如何なものになつたろう……」 「…何ぼ僕が空想家だつて、見す見す破滅に陥るやうな道には行きはすまい。」
1925年 8月30日 月曜日 晴 古田大次郎獄中手記より「死刑囚の心理状態……」 (藤井教誨師から聞いた話を記憶のまま引用)普通の死刑囚の心理状態は、先ずこんなものださうだ。こゝに救ふと言つたのは、少々言葉を濫用し過ぎたやうなものだが、要するに、非常な…
1908年 8月29日 赤旗事件第判決公判 『熊本評論』31号 1908.9.20<悲壮なる最後の法廷> 二面「錦輝館赤旗事件の判決言渡しは8月29日午前11時服部検事立会、島田裁判長に依り言い渡された。判決左の如し重禁錮2年6月罰金25円 大杉栄同 2年 20円 堺利彦同 山…
1919年 8月28日 28日午後2時より大杉栄、荒畑を初め山川、吉川、服部、近藤憲二、和田久太郎、中村還一の八名集合し山川は大杉、荒畑の交渉顛末を陳へて大杉より一応の謝罪を為さしめ更らに大杉の発行せんとする雑誌労働運動の資金其他の方法を協議せるか発…
<自由労働者同盟生る> 毎朝未明から『人市』が東京の方々にたつ。数千の労働者が羅漢様のように突っ立って労働力の取引をする。……イワユル『立ちん坊』自身の固い団結を作るろうぢゃないかと云う話しは、毎朝突っ立つ『人市』の『たまり』での、何時からか…
大杉栄 <大久保より>『近代思想』9月号 「いよいよ廃刊号を出す事となった。……僕等の新しい雑誌は『平民新聞』と名づける事にきめた……しばらく来なかった下痢と風とに襲われて了った。そして13日から19まで寝て了った。20日の朝は、起き上がって書き始めよ…
1925年 8月26日古田大次郎「獄中手記」そろそろ皆に、お別れを告げねばならぬ。これから書く手紙は多分僕の最後のものとなろう。…考えると淋しい。
古田大次郎「獄中手記」 雨の日の淋しさを前には好んだが、今はそれを堪へ難いものと思ふやうになつた。それだけ心が弱くなつたのだ。 矢張り、いつも晴れた青空を見てゐたい。死ぬ時も晴れた日であつてくれ。 松谷弁護士来訪。…
1908年8月24日 《在パリ、アナキスト張景などが刊行》 『新世紀』10号、日本の朝鮮支配、帝国主義を厳しく告発
1927年8月23日サッコ、ヴァンセッチ問題と其の波動 全世界の視聴を集め、全労働者階級の猛烈な示威を捲き起こしたサッコ、ヴァンセッチ両君の死刑執行は、口惜しくも八月二十三日の夜半、民衆の激怒と陰惨な凝視の中に執行されてしまった。この姑息にして横…
1908年8月22日堺利彦証言、荒畑寒村証言「大杉栄と共に暴行を受ける」『熊本評論』30号 1908.9.5発行<赤旗事件公判筆記(承前 金曜社旧同人筆記)>公判第二日 8月22日 一面三面五面一面 午前……検事の論告……… 8月22日午前9時東京地方裁判所に於て古賀検事干…
この日は入場定員を無視して千人以上の聴衆が入場した上に同数ぐらいが場外に溢れて劇場を取り巻いていた。…主催者の一人ある後藤学三が舞台に駆け登り「このような抗議集会を屋内でしても意味がない。諸君、街頭へ街頭へ」と絶叫したのがキッカケになり待機…
http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/sacco-vanzetti.html
「サッコ・ヴァンゼッティ」に関して『自由連合』1968年8月掲載 8月21日。その夜、築地小劇場は満員、場外にあふれたデモ隊と場内の叫びとが呼応した。40名の弁士は次々と中止と検束の中に「サッコ、バンゼッチを無条件に釈放せよ」の抗議が緊急可決され、…
1927年 8月21日
1925年8月20日古田大次郎獄中手記より 「愈々秋だ。淋しいが、心は益々落付いてゆく」
1925年 8月19日 古田大次郎、獄中手記 「晴。運動場の隅に生えてる雑草──ほんの二、三本だが、その雑草が、雨の降る度に、眼に見えて大きくなる。」 山崎弁論批判 「僕を真実に知り、そして愛してくれるならば、弱い僕に力を与えて安らかに死なせて貰ひたい…
1923年 8月18日新山初代「自由人社で大杉栄の仏国行の話がありましたので、朴興坤と聴きに行きました。」
1913年 8月17日 大杉栄宅 シンヂカリズム研究会 大杉栄、安成二郎と問答「総同盟罷工、佛国に於ける無政府主義者は……」
1926年8月16日 朴烈の兄、ムンギョンより朴廷植、息子を伴い東京に着く
1919年8月15日 大杉栄、若林方大杉及和田久太郎の両名出獄歓迎会を兼ねたる北風会例会に出席し談話
1908年8月14日 幸徳秋水、翌日からの赤旗事件公判傍聴のため東京に戻る同夜、豊多摩郡淀橋町柏木に住み平民社とする。 熊本評論をやめた坂本清馬が住み込み、森近運平も合流
1918年 8月13日 大杉栄、京都に向かう
1908年8月12日 幸徳秋水、箱根の内山愚童を訪ねる 1918年8月12日 大杉栄は午後9時頃より岩出、逸見他1,2名の同志と共に暴動の状況を見物、西成郡今宮町、南区日本橋筋をまわる
1918年 8月11日 伊藤野枝は帰京、大杉栄は岩出方に転宿、夜11時過ぎ岩出、武田と共に暴動の状況を見物<米騒動> 1919年 8月11日 大杉栄、午後3時55分 保釈出獄 4時30分 駒込曙町13番地なる仮住所に帰れり 検事は即日控訴
1918年 8月10日 大杉栄 「大阪毎日新聞社」に和気律次郎を訪ねる 岩出金次郎、武田伝次郎、逸見直造を宿泊先の旅館に呼ぶ
大杉栄、傷害罪により罰金50円の判決
大杉栄、伊藤野枝は神戸に上陸、夜半に京阪電車で大阪に向かう
新山初代「朝鮮キリスト教青年会館で黒友会主催の演説会がありました。この会も中止を命ぜられ司会者、洪鎮裕は検束されました」 予審調書より