2006-02-01から1ヶ月間の記事一覧

1926年 金子文子・朴烈 大審院 第3回公判

1926年2月28日 金子文子・朴烈 大審院 第3回公判 弁護人弁論、日曜開廷には反対があった

1913年 大杉栄、同志茶話会に出席

1913年 2月27日 大杉栄、同志茶話会に出席 堺利彦方

1926年 朴烈、金子文子の公判が大審院で始まる

1926年2月26日 朴烈、金子文子の公判が大審院で始まる

1912年 大杉栄、同志茶話会に出席

1912 2月25日 大杉栄、同志茶話会に出席 堺利彦方

1946年 坂本清馬、岡林寅松「復権」

1946年2月24日 幸徳秋水事件、坂本清馬、岡林寅松、刑の言い渡しの効力を失わせ「復権」

1919年 大杉栄、吉田一発起小集会に出席

1919年 2月23日 大杉栄、吉田一発起小集会に出席

1907年 日本社会党、治警法で弾圧 1914年 大杉栄、晩餐会に出席

1907年2月22日 内務大臣は日本社会党を治安警察法により結社禁止1914年2月22日 大杉栄築地精養軒 近代思想、生活と芸術 執筆者晩餐会 同夜鎌倉に戻る(調査書記載)

1911年 大杉栄、同志茶話会出席 1936年 シンチェホ獄死

1911年2月21日 大杉栄出席 同志茶話会 神楽坂倶楽部 1936年2月21日シンチェホ、旅順監獄にて病死。刑期を3年ほど残し、病気が悪化、1936年2月21日<旧暦>、脳溢血で獄死。

和田久太郎 秋田刑務所独房で縊死

1928年2月20日 和田久太郎 秋田刑務所独房で縊死 墓碑は松下竜一『久さん伝』には明石市鍛冶屋町の浄土宗浜光明寺と記述 戒名は観窓院梅正久法居士 Ozaさん調べ

1907年 幸徳秋水の演説内容を掲載した日刊『平民新聞』を発禁

1907年2月19日 幸徳秋水の演説内容を掲載した日刊『平民新聞』を発禁 西園寺内閣は新聞の発禁、解党と、弾圧を強化。 <大会決議と幸徳の演説>を掲載した日刊『平民新聞』28号を安寧秩序を乱すものとして発売禁止。

1907年 第2回社会党大会で直接行動派が党内の主流となる

1907年2月17日第2回社会党大会で直接行動派が党内の主流となる

1916年 『平民新聞』5号発禁処分 1923年 大杉書簡

1915年2月16日 大杉栄、荒畑寒村発行の『平民新聞』5号発禁処分 5号印刷中、発禁処分、押収1923年2月16日 大杉栄、伊藤野枝宛「13日の朝早くマルセイユに着いた。……会は注文通り4月1日に延びた。」

1914年 大杉栄、研究会に出席 1915年 大杉栄「代議政治論」を講演

1914年2月15日 大杉栄、調査書には荒畑方 サボタージュ研究会出席 <調査書の誤記>シンヂカリズム研究会と思われる 1915年2月15日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方 (本会は席上荒畑勝三の演術せるところに依れば従来大杉栄等の主催に関わるシンヂカ…

1904年 幸徳秋水 『平民新聞』2月14日号に「戦争来」掲載

1904年2月14日 幸徳秋水、『平民新聞』2月14日号に「戦争来」掲載 <…戦争反対を絶叫すべし。しかして、露国における同胞・平民も必ずやまた同一の態度・方法に出づるを信ず> <2月10日、日露戦争開戦>

1909 宮下太吉 平民社・巣鴨を訪ねる 1923年 大杉栄 マルセイユ

1909年2月13日 宮下太吉 平民社・巣鴨を訪ねる、新村忠雄と会う1923年2月13日 大杉栄 マルセイユに着く。リヨンに行く。中国の同志数名と会う。カルト・ディダンティテをもらうのに、一週間かかる。

1911年 サンフランシスコで幸徳事件処刑者追悼大演説会が開かれる

1911年2月12日 サンフランシスコで幸徳秋水事件処刑者追悼大演説会が開かれる。

1923年 大杉栄、ヨーロッパに入る

1923年2月11日 大杉栄、伊藤野枝宛「……けさは起きるとすぐ、イタリアとシシリー島の間の狭い海峡を通った。いよいよヨーロッパにはいったのだ。……」

大杉栄『労働運動』11号発行

1923年 2月10日 『労働運動』11号 <マルクスとバクニン> 大杉栄 <ボルシエイキの暴政五>大杉栄 <行衛不明> 伊藤野枝 <消息> ■後藤謙太郎君 尾行を短刀で脅か死、二十五日の拘留

1913年 大杉栄 『近代思想』の集まりを開く

1913年 2月9日 大杉栄、『近代思想』第2回小集を開く

1918年 大杉栄 横浜に赴き同志小池潔及吉田只次に会う

1918年2月8日 <状勢>大杉栄は横浜に赴き同志小池潔及吉田只次に面会し雑誌刊行上に関する協議等を為し翌9日帰京

1911年 幸徳秋水の遺骨が埋葬される 1923年 大杉、スエズに着く

1911年2月7日 幸徳秋水の遺骨、土佐中村の正福寺に埋葬1923年2月7日 大杉栄、伊藤野枝宛「朝起きて見たら、とうにスエズに着いて船はとまっている。……」

1914年 大杉栄、鎌倉に家を借りる 1923年 大杉、スエズへ向けて航

1914年2月6日 大杉栄、鎌倉町字坂ノ下22に家を借り受ける1923年2月6日 大杉栄、伊藤野枝宛「ジプチには夜朝早く出帆したので何も見ることができなかった。……きょうはこの紅海が大ぶ狭くなって、アフリカとアラビアの両方の山が見える。あすの朝はスエズだ。……

1907年 幸徳秋水「予が思想の変化」発表 1922年 大杉栄 八幡罷工

1907年2月5日幸徳秋水「予が思想の変化」発表 日刊『平民新聞』2月5日号 1922年2月5日 大杉栄 八幡罷工紀念演説会 有楽館に於て演説

1909年 新村忠雄が平民社に滞在

1909年2月4日 前橋監獄から出獄した新村忠雄が平民社に滞在。 後に坂本清馬に代わり幸徳秋水の世話をするため住み込む。 新村は『東北評論』の署名人として入監していた。信州出身。

1922年 大杉栄 八幡罷工紀念演説会に密かに向かう 

1922年 2月3日 大杉栄 労働運動社から尾行を脱し同志岩佐作太郎、近藤憲二、和田久太郎と共に所在を眩まし西下せる形跡ありし…<八幡製鉄所騒擾事件の二周年記念演説会に出席のため>

1913年 大杉栄 秋田監獄、坂本清馬に面会

1913年 2月2日 大杉栄 秋田監獄、坂本清馬に面会

1911年 『基督抹殺論』刊行 1916年 平民講演会 1924年 金子文子

1911年2月1日 幸徳秋水遺著『基督抹殺論』刊行。幸徳が公判中に脱稿し、処刑後一週間での刊行。印税は後に第一回の屋外メーデーの活動資金にも充当された。2月1日、徳富蘆花「謀反論」と題する講演を一高で行う。1914年2月1日 大杉栄方 シンヂカリズム研究会…