2006-01-01から1ヶ月間の記事一覧

1926年 黒色青年連盟、黒旗事件(銀座事件)

1926年 1月31日 黒色青年聯盟、黒旗事件(銀座事件) 『黒色青年』より わが黒色青年連盟は1月31日午後6時半より芝協調会館で第一回の演説会を開催した。東京地方に散在する無政府主義団体の最初の会合であった。会する者七百有余。二流の黒旗の下には6つの…

1911年 幸徳事件、刑死者の遺体引取りに関わった人たちの慰労の集ま

1911年1月30日 堺利彦宅にて幸徳事件、幸徳秋水ら刑死者の遺体引取りに関わった人たちの慰労の集まりが開かれる。大杉栄も参加。

1909年 警視庁『麺麭の略取』を差し押さえ、20部

1909年1月29日警視庁、幸徳秋水訳『麺麭の略取』を差し押さえ、20部

1911年 管野須賀子の遺体、正春寺に埋葬

1911年1月28日 古河遺骨、渡辺政太郎が堺方に移す。 28日、管野須賀子の遺体、正春寺に埋葬。

1911年 荒畑寒村、管野須賀子の遺体と対面

1911年1月27日 荒畑寒村、増田方を訪れ管野須賀子の遺体と対面。 27日、古河力作遺体火葬、27日、内山愚童の遺骨は箱根林泉寺に埋葬

1911年 啄木、幸徳事件記録を読む 1930年  高群、平塚らいてう等

1911年1月26日石川啄木 「特別裁判一件書類をよんだ。七千枚十七冊、十二時までかゝって漸く初二冊とそれから管野すがの分だけ方々拾ひよみした。頭の中を底から掻き乱されたやうな気持ちで帰った。」平出の自宅で大審院公判記録の初めの二冊、管野須賀子に…

1903年 金子文子生まれる 1911年 管野須賀子処刑 1922年 凍死の

1903年1月25日 金子文子、横浜で生まれる1911年1月25日 管野須賀子、処刑1922年 1月25日 望月桂たち三人が湯ヶ島に到着、猫越<ねっこし>部落に着いたのは夕方、寝棺に納められていたこの夜、部落の人たちにより久板卯之助遺体を火葬★番外 2006年1月25日『…

1911年 幸徳ら処刑 1925年 村木源次郎≪労働運動社≫で病死

1911年1月24日 幸徳秋水 午前8時6分 新美卯一郎 午前8時55分 奥宮健之 午前9時42分 成石平四郎午前10時34分 内山愚童 午前11時23分 宮下太吉 12時16分 森近運平午後1時45分 大石誠之助 午後2時23分 新村忠雄 午後2時50分 松尾卯一太 午後3時28分 古河力作 午…

1910年 古河力作、平民社を訪ねる。 1925年 村木源次郎、危篤

1910年 1月23日 古河力作、平民社を訪ねる。馬車と投弾者の配置図を書く。 管野須賀子、新村忠雄、古河力作、馬車に爆裂弾を投げつける順番を決めるが未決、幸徳秋水はずれていた。 1925年 1月23日 村木源次郎、市谷刑務所で危篤になり獄外に出る

1911年 管野須賀子「死出の道艸」

1911年1月22日 管野須賀子「死出の道艸」廿二日 晴れ 昨夜は入監以来始めての厭な心地であった。最後の面会という一場の悲劇が、私の[鋭い 末梢]神経を非常に刺戟したからである。去年6月2日に始めて事件の暴露を知って以来、相当に[精神 末梢]修養をしたつ…

1922年 久板卯之助、伊豆天城山中、猫越<ねっこし>峠で凍死

1922年 1月21日 久板卯之助、伊豆天城山中、猫越<ねっこし>峠で凍死

1925年 後藤謙太郎、巣鴨刑務所で縊死

1925年 1月20日 後藤謙太郎、巣鴨刑務所で縊死

1911年 幸徳事件、12名に「特赦」決定

1911年1月19日 遅い時間に12名の特赦決定。幸徳秋水、管野須賀子、宮下太吉らは「特赦」から除かれる。

1911年 幸徳秋水ら 24名に死刑判決

1911年1月18日幸徳秋水ら 24名に死刑判決大審院、24名に有罪判決、新村善兵衛、新田は爆発物取締罰則のみ認定、「大逆罪」を承知していたという調書は信用できないとされた。大審院の審理は形式的で、政府の意を受け刑法73条適用、取調、予審訊問をコントロ…

1908年 金曜講演会、屋上演説事件

1908年1月17日 金曜講演会が開かれ、弁士中止と集会の解散が命令されたが大杉栄たちは平民書房の二階から演説、小石川工廠の労働者が集まる、堺利彦たちも共に検束される

1911年 石川啄木、土岐哀果と雑誌『樹木と果実』刊行の相談

1911年1月16日石川啄木、土岐哀果と雑誌『樹木と果実』刊行の相談 「我々の雑誌を文学に於ける社会運動といふ性質のものにしようといふ事に二人の意見が合した」

1911年 幸徳事件、大審院の七判事、判決文に署名

1911年1月15日 幸徳秋水らの公判。 大審院の七判事、判決文に署名。

1911年 新村忠雄、獄中手記

1911年1月14日 新村忠雄、獄中手記日記のしたがき▲運動に出て地上の三寸余の霜柱を見て急に故山を思うの念が湧いた。…………

1911年 新村忠雄、獄中手記

1911年1月13日 新村忠雄、獄中手記▲午後寒くなって冷えるので寝て本を読んで居ると面会だ。赤い紙だから弁護士だと言われた。▲行って見ると半田一郎君だった。…………▲拘引以来はじめて人にあったのだ。饒舌りたい事許りだったが、冒頭にいろいろ注意があったの…

1911年 新村忠雄、獄中手記

1911年1月12日 新村忠雄、獄中手記 ▲一昨日家兄が日記をつけておけと言つて来た。▲獄中では思ったままを欺かずに書いたら、過激な言論だと云うて許さぬだろうと思うと、書く気はなくなってしまう。…………

1911年 石川啄木、朝日新聞社で幸徳事件を語る

1911年1月11日石川啄木「社で渋川氏に岩佐等の密輸入の話をした。市俄(高)古の万国労働者の代表者から社に送って来た幸徳事件の抗議書──それは社では新聞に出さないといふので予が持って来た──を見せた。」註 市俄(高)古→シカゴ

1911年 石川啄木、クロポトキンを愛読

1911年1月10日 石川啄木、アメリカで秘密出版され日本国内に送付されたクロポトキン著の小冊子『青年に訴ふ』の寄贈を歌人谷静湖より受け愛読する。「社に行くと谷静湖から約束の冊子が届いていた。在米岩佐作太郎なる人から贈って来たといふ革命叢書第一篇…

1911年 石川啄木、クロポトキンを語る

1911年1月9日石川啄木、瀬川深宛「僕は必ず現在の社会組織経済組織を破壊しなければならぬと信じている、これ僕の空論ではなくて、過去数年間の実生活から得た結論である、僕は他日僕の所信の上に立って多少の活動をしたいと思ふ、僕は長い間自分を社会主義…

1914年 大杉栄、病気回復

1914年1月8日 大杉栄、病気回復「1913年11月28日 寒村 <大久保より> 「大杉が器官を悪くして………」 『近代思想』12月号(調査書記載無し) 1913年12月22日 大杉栄 <大久保より> 「……医者の厳命によって、まだ床に就いている。………」 『近代思想』1月号

1911年 石川啄木、幸徳事件の陳弁書を返却

1911年1月6日石川啄木 「借りて来た書類を郵便で平出君に返した。夕飯の時は父と社会主義について語った。」

1923年 大杉栄、ル・ボン号で上海を出航。

1923年1月5日大杉栄、ル・ボン号で上海を出航。

1911年 啄木、陳弁書を写す 1913年 大杉栄、近代思想社寄稿家招待

1911年1月4日石川啄木、夜、幸徳秋水の陳弁書を写す1913年1月4日 大杉栄、近代思想社寄稿家招待会を開催、日本橋メーゾン鴻巣

1911年 石川啄木、幸徳の弁護士宛「意見書」を借用 1916年 大杉栄

1911年1月3日石川啄木 友人の平出修弁護士と会う、幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借用する、翌々日までに写す1916年1月3日 同志吉川守国方に大杉栄外9名、会合協議『近代思想』の刊行体制に関して

1924年 難波大助、第二回予審訊問

1924年1月2日難波大助、第二回予審訊問。沼義雄判事による。

1908年 『高知新聞』幸徳秋水「病間放語」掲載 1910年 平民社新年

1908年1月1日『高知新聞』幸徳秋水「病間放語」掲載 ☆幸徳秋水 「文明の日本、戦勝の日本、樺太を占領し、朝鮮の保護するの日本、三井と岩崎の日本においても革命はたしかに活ける問題なり」 「フィリッピン人・ベトナム人・朝鮮人中、また気概あり、学識あ…