1914年 大杉栄、『近代思想』廃刊 1922年 自由労働者同盟生る

1914年 8月27日 

大杉栄 <大久保より>『近代思想』9月号

「いよいよ廃刊号を出す事となった。……僕等の新しい雑誌は『平民新聞』と名づける事にきめた……しばらく来なかった下痢と風とに襲われて了った。そして13日から19まで寝て了った。20日の朝は、起き上がって書き始めようと思っていたが、こんと。は保子が風にかかって起き上がれない。僕は早速参考書を10冊ばかりりカバンにつめて葉山へ出掛けた。しかし葉山の3日間は、只大体の筋をつくったのと、………僕の論文集『生の闘争』が9月中旬に新潮社から出る。……同じく9月中旬、新潮社の新潮叢書の一篇として、僕の翻訳ダアインの『種の起源』が出る。それから、これも9月中旬頃、実業之世界社の新智識叢書の一篇として、僕の翻訳ギュスタヴ・ルポンの『物質非不滅論』が出る。…本月16日発行の『第三帝国』に僕の『欧州大乱と社会主義者の態度』が載った。そして『第三帝国』は、僕の外に2,3の原因はあったそうだが、発売禁止になった。………」


1922年 8月27日 

自由労働者同盟生る> 毎朝未明から『人市』が東京の方々にたつ。数千の労働者が羅漢様のように突っ立って労働力の取引をする。……イワユル『立ちん坊』自身の固い団結を作るろうぢゃないかと云う話しは、毎朝突っ立つ『人市』の『たまり』での、何時からかの、宿題だった。その話は次第に熟して行った。数度の協議の後、8月27日に富川町の四畳半ぽっきりの家で、各『たまり』からの20数名の発起人の手によって、ここに後記の宣言、綱領、規約をもつ『自由労働者同盟』が成立した。富川町の坂野兄弟、堀川久、三河町の南、石山、中濱、伊串等の諸君や、鮮人の孫、白武、の両君などが、中堅だ。思想団体にも出入し、アナーキの色彩の濃い人達だ。かくて組合は成立した。が、其の活動は今後に見なければならぬ。………本誌にもテツ公が信越の監獄部屋の事を書いてる。……(幸力)

宣言………自由労働者組合

綱領………

規約………本同盟は、富川町部、花町部、三河町部、朝鮮部よりり成り当本部を深川区富川町21番地に置く。『労働運動』第7号 1922.9.10