1920年 大杉栄、刑期満了出獄 1926年金子文子・朴烈、結婚届け

1920年3月23日 
 大杉栄、午前7時10分同志近藤憲二外の出迎えを受け市内電車にて9時50分本郷区曙町13番地へ帰宅せり

1920年3月23日 
 <出獄の辞>大杉栄 『労働運動』5号掲載

1926年3月23日 
 金子文子・朴烈、結婚届けを出す。この届けは死刑判決を前提とし、二人の遺体引取り便宜のため。布施辰治の以下のテキストが明らかにしている

「ニヒリストの最後に、死を急いだ朴烈文子は其の遺骸の覚悟に関し、当時、文子の父も母も之を引取って呉れやうとは思はれず、又引取って呉れやうと云う同志の人には、刑務当局が引渡して呉れそうも無し、結局宙に迷ふ文子の遺骸を合法的に引取る引取人を作る為に結婚届けを出した、真に悲壮凄惨な結婚届けだつたのである。本人自身等は形式の結婚届に相思の実を結ばうとしたのでも無ければ、法律的形式に服した訳でも無い、……文子自殺の原因を妊娠の結果と宣伝するものもあるらしいが馬島医師の検証した処に依れば全然之を認めない 私は、司法刑務当局のあるべき遺書を発表しない卑怯は之を責むる、秘密主義は之を愚とする、けれども自殺した事を信じた事実の直感は之を偽らない。…」『改造』10月号