1925年 古田大次郎獄中手記より「死刑囚の心理状態……」

1925年 8月30日
月曜日 晴 古田大次郎獄中手記より「死刑囚の心理状態……」
(藤井教誨師から聞いた話を記憶のまま引用)

普通の死刑囚の心理状態は、先ずこんなものださうだ。こゝに救ふと言つたのは、

少々言葉を濫用し過ぎたやうなものだが、要するに、非常な煩悶と恐怖に陥って

ゐる囚人を、何とか諦めさせ、忘れさせ、そして出来るだけ安らかに死なせてやる、

そのことを言ふのだ。…

1908年 赤旗事件第判決公判

1908年 8月29日
赤旗事件第判決公判
『熊本評論』31号 1908.9.20

<悲壮なる最後の法廷> 二面

「錦輝館赤旗事件の判決言渡しは8月29日午前11時服部検事立会、島田裁判長に依り言い渡された。判決左の如し

禁錮2年6月罰金25円 大杉栄

同  2年    20円 堺利彦

同          山川均

   (註 控訴するも原審のまま)

同          森岡永治

同  1年6月  15円 荒畑勝三

同          宇都宮卓爾

同  1年    10円 大須賀さと

   (註 控訴審で執行猶予が付く)

同          村木源次郎

同          佐藤悟

同          百瀬晋

同  1年    2円 小暮れい

   (但し5年間刑の執行猶予)

同          徳永保之助

(但し5年間刑の執行猶予)

無罪         管野すが

無罪         神川まつ

…寒村荒畑勝三君は、猛烈疾呼して曰く『裁判長!』裁判長は稍々青味勝ちたる顔を仰て寒村君のを一瞥した。寒村君は猛獅の吼ゆるが如く、

『裁判長! 神聖なる当法廷に於て、弱者が強者の為に圧迫せられた事実の、明瞭となりしを感謝します、何れ出獄の上御礼を致します』…

 次で大杉君も亦『裁判長!』と疾呼して何事をか言わんとした、然し驚愕の色を眉宇に浮かべたる裁判長は、『今日は言渡しを仕た迄だ、不服があれば控訴せよ』

と言い棄てて去んとする。茲に於て大杉君は『無政府党万歳!』

と叫んだ他の同志も我劣らじと『無政府党万歳』を連呼した。…』傍聴席には60余名の同志が列席し、新聞社席には都下の新聞記者及幸徳秋水、坂本克水、徳永国太郎、等の諸君が着席して居た。

 佐藤悟君は例の蛮声で、『是が所謂法律だ吾々は唯だ実行!!実行!!』

 大杉君は、呵々大笑して居た。非常に感情の興奮する時、吾等は彼の此の哄笑を聞くのである。曾て本郷平民書房楼上に於て、金曜講演迫害事件の有た当夜、同志の一人がユートピアの話を仕て臨検警部の講演中止、集会解散を食った時、呵々大笑したのは大杉君であった他人が血涙を振って憤る時に、哄然として大笑するのが大杉君の癖である、吾等は彼れの此の哄笑を聞く毎に、悲憤の涙が零れる。堺君は幸徳秋水君に。『社会党の運動も是で一段落だ、折角身体を大事に仕手呉れ』と言いつつ、相顧みて一笑した、ああ寂しき一笑、無限の感懐に満ちたる一笑。

 山川君は、毫も興奮の状が容貌に現われて居無かった、静々笑って、悠然として、も出て行った、ああ痩せたる彼れの後姿!!三ヶ月有半の牢獄生活に、青春の血潮を涸渇されたる彼は、今や再び苦き経験を繰り返さんとす、ああ恐ろしき監獄の烈寒………………

 看守は十四名を牽いて撻外に出した、長き広き廊下に溢れたる群衆は、愁いと笑をもて目送する、同志の或者は再び万歳を連呼した。而して『ああ革命は近けり』と、声高々に歌うたいつつ。

大いなる運動、大いなる活動は、茲に時期を劃した、歴史は更に次の頁に移らねばならぬ。如何なる頁か、其は唯だ為政者の自由なる想察に任せる!!(有生)

1919年 大杉栄ら、『労働運動』刊行の準備

1919年 8月28日   
28日午後2時より大杉栄、荒畑を初め山川、吉川、服部、近藤憲二、和田久太郎、中村還一の八名集合し

山川は大杉、荒畑の交渉顛末を陳へて大杉より一応の謝罪を為さしめ更らに大杉の発行せんとする雑誌労働運動の資金其他の方法を協議せるか発行に要する準備金三百円は大杉より支出し(大杉は既に大石七分より借入れ約ありと云う)保証金一千円は高利貸より借入るる筈なるも大杉にては到底貸与するものなきを以て吉川守国、服部濱次、両人にて責任を負うこととなり而して雑誌表面の関係者として大杉栄、伊藤ノエ、近藤憲二、和田久太郎、中村還一の五名となし山川、荒畑等は裏面にありて援助することとなれり而して実際運動として来る9月1日より「北風会」を改称して「平民結社」と名つけんと主張せしもありしか警視庁の干渉あるへしとして「労働同盟会」となすことに決し三章位の綱領を以て近藤憲二、和田久太郎、中村還一の三名をして主宰たらしめ更に荒畑勝三の「労働研究会」は二、三ヶ月の訓練を為したる後之に併合し一大結社となすことに決定したりと云う追て北風会組織変更に付いては各同志へ既に通告状を発しありて9月1日例会席上協議するものの如し又当日堺利彦出席する通知あるも大杉との打合上出席を断わりたる由

1922年 8月27日 

自由労働者同盟生る> 毎朝未明から『人市』が東京の方々にたつ。数千の労働者が羅漢様のように突っ立って労働力の取引をする。……イワユル『立ちん坊』自身の固い団結を作るろうぢゃないかと云う話しは、毎朝突っ立つ『人市』の『たまり』での、何時からかの、宿題だった。その話は次第に熟して行った。数度の協議の後、8月27日に富川町の四畳半ぽっきりの家で、各『たまり』からの20数名の発起人の手によって、ここに後記の宣言、綱領、規約をもつ『自由労働者同盟』が成立した。富川町の坂野兄弟、堀川久、三河町の南、石山、中濱、伊串等の諸君や、鮮人の孫、白武、の両君などが、中堅だ。思想団体にも出入し、アナーキの色彩の濃い人達だ。かくて組合は成立した。が、其の活動は今後に見なければならぬ。………本誌にもテツ公が信越の監獄部屋の事を書いてる。……(幸力)

宣言………自由労働者組合

綱領………

規約………本同盟は、富川町部、花町部、三河町部、朝鮮部よりり成り当本部を深川区富川町21番地に置く。『労働運動』第7号 1922.9.10

1914年 8月27日 

大杉栄 <大久保より>『近代思想』9月号
「いよいよ廃刊号を出す事となった。……僕等の新しい雑誌は『平民新聞』と名づける事にきめた……しばらく来なかった下痢と風とに襲われて了った。そして13日から19まで寝て了った。20日の朝は、起き上がって書き始めようと思っていたが、こんと。は保子が風にかかって起き上がれない。僕は早速参考書を10冊ばかりりカバンにつめて葉山へ出掛けた。しかし葉山の3日間は、只大体の筋をつくったのと、………僕の論文集『生の闘争』が9月中旬に新潮社から出る。……同じく9月中旬、新潮社の新潮叢書の一篇として、僕の翻訳ダアインの『種の起源』が出る。それから、これも9月中旬頃、実業之世界社の新智識叢書の一篇として、僕の翻訳ギュスタヴ・ルポンの『物質非不滅論』が出る。…本月16日発行の『第三帝国』に僕の『欧州大乱と社会主義者の態度』が載った。そして『第三帝国』は、僕の外に2,3の原因はあったそうだが、発売禁止になった。………」

1925年 古田大次郎「獄中手記」 そろそろ皆に、お別れを告げねばな

1925年 8月26日

古田大次郎「獄中手記」

そろそろ皆に、お別れを告げねばならぬ。これから書く手紙は多分僕の最後のものとなろう。…考えると淋しい。

1925年 古田大次郎「獄中手記」 死ぬ時も晴れた日であつてくれ

古田大次郎「獄中手記」

 雨の日の淋しさを前には好んだが、今はそれを堪へ難いものと思ふやうになつた。それだけ心が弱くなつたのだ。

 矢張り、いつも晴れた青空を見てゐたい。死ぬ時も晴れた日であつてくれ。

 松谷弁護士来訪。…