1925年 和田久太郎意見陳述 古田大次郎ノート

1925年6月21日
 和田君は第二回公判廷にて左のやうに言つた。
「僕のこの度の行為は、僕が常に抱いてゐる主義思想とは関係なく、一昨年、震災の混乱を利用して『社会主義者鮮人の放火暴動』などといふ嘘八百の流言を放ち、火事場泥棒的に多くの社会主義者や鮮支那人が虐殺されたことに対する復讐である。
 その当時、流言蜚語を放つた者を厳罰する法令が出て、その流言蜚語を取り次いだ者の二、三が罰せられた事は白日公然の事実であるから、即ちその流言蜚語を放つた犯人が時の政府でなく、警視庁でなかつた事も、確かに白日公然の事実である。
 然しながら、それと同時にあの当時、各所に流言を放つて歩いた者の多くが、騎馬にまたがつて軍服を附けてゐたもの、自動車に乗つて巡査の制服を着けてゐたもの等であつた事も、震災地にゐた総ての人々の眼に映つたところの事実である。
 兎に角、あの当時『鮮人を殺せ、社会主義者を生かして置くな』といふ流言蜚語が盛んに行はれた。所々に於て鮮人は群集に切り殺され、兵隊によつて銃殺された。平澤計七君等十一名は、ただ社会主義者だといふ理由だけで、真裸体にして突き殺され、首をちよん切られた。
 何故僕が首を切り落とされた事まで知つてゐるかといふと、その虐殺された平澤君の首と胴体の離れた姿が、偶然にも、当時或る人の撮つた写真の中から発見されたのである。
 然して、十六日には、吾が大杉夫妻及び六歳の甥の宗坊が憲兵本部に連れ行かれ、諸君の知らるゝ通りの残虐極まる殺され方をしたのである。
 又、ある社会主義者の宅は銃剣を着けた軍隊に襲はれ、ある者の家は武装した青年団に襲はれた。巣鴨警察に検束された同志の中の四名は、道場や広庭に引出されて、柔道の手で投げ飛ばされ、竹刀、厚板等で乱打され、幾度か気絶さゝれた。
 吾が労働運動社は、九月一日から七日迄の間、ただ一度二升の玄米を分配されたのみで、それ以外、一切の食料品の分配を町内青年団から拒まれた。そして七日に、一斉に駒込署に検束され、僕の如きは四十度近い熱で病臥してゐるのを布団のまゝ留置場にかつぎ込まれた。
 かくの如き暴虐! これに対する悲憤! それが凝つて以つて今回の復讐となつたのである。
 がその数多い暴虐の中に於いても、特に、吾が大杉夫妻及び気の毒で堪らないいたいけな宗坊の虐殺に対する悲憤が、尤も強く僕の心を動かした事は勿論である。


1925年6月21日

古田大次郎「獄中手記」より、後に『死の懺悔』として刊行

「最後の幕、ハンミョウに似た虫、囚人の骨休みの日兎に角僕は生きているべき人間ではないのだ、雲の形、監獄、死…」