1908年 赤旗事件

<廿二日の無政府党の活動> 東京 竹内善朔 

…6月22日、在京の諸同志は山口義三君の出獄を神田錦輝館楼上に於て迎え、…。発起人は石川三四郎君外三氏なりと曰い或は東京社会新聞社同人なりとも曰う、吾人は其何れなるやを知らざれども案内状に二様の別ありたるは事実なり斯くして会は午後2時に至りて開かれ、石川、西川、堺諸君の歓迎の辞ありて、余興に移る。此の日金曜社派は意気天に沖して頗る軒昂を極めたり。

 余興半ばに至り、我同志(平民社派)は先無政(むせ)無政(むせ)無政(むせ)無政府党万歳、アナ、アナ、アナ、アナーキーとさかんに連呼し、革命歌を高唱しつつ『無政府』『共産』『革命』と各赤字に白く縫箔りしたる三流の旗を真先にたて、午後6時儀容堂々として楼を下れり。

 是れより前、十余名の警官は命を啣(ふく)みて門前を警戒し居りたりしが、斯くと見るや、バラバラと駆け寄りて旗手を包囲し『旗を巻け』と曰うや、直ちに、腕力を以て之を奪わんとせり。同志は其の不法なることを詰責しぬ、堺、山川二兄は其の説諭に努めぬ、而かも猟犬の如き警官等は猶も包囲して赤旗を奪わんとす、事態此の如く形勢は愈々不穏となれり。群集は潮の如く寄せ来り、警官は餓狼の如く増加しぬ、而して神田警察署は実に指呼の間にあるなり。されば忽ちにして三十余名の第一回応援隊は其の剣覇を握りて疾風の如く来りぬ、群集は動揺きぬ。此の状を見て憤怒せる我同志は其の赤旗の奪われざらんことを誓う。於是乎(ここにおいてか)一場の活劇は演ぜらるるに至りたり。斯くて三流の赤旗は或は高く揚り、或は低く隠る、其の低く隠れたるは敵に奪われたるの時にして、其の高く揚りたるは敵の手より奪い還したるの時なり。

 戦線は漸くにして広がり行きぬ。………我同志中最も勇敢に戦いたる大杉、佐藤、荒畑の三兄を始めとして或者は衣服を寸裂せられ或者は傷けられぬ。斯して七八十名の警官と二十余名の同志とは一時間余の戦闘を継続しぬ。

 ………………同志は其の旗の赴くまにまに三方に別れぬ。堺、山川二兄等は警官の慰撫に尽力したりしが其の効無くして、非常召集は行われ敵は新手を以て要所要所を固めたり。

 戦闘は依然として継続しぬ、………先づ『革命』の旗は何処にか没し去れり。次いで『共産』の旗も巻かれたり。唯だ『無政府』の旗のみ最後まで其の色鮮かに外国語学校附近に於て大活動をなし居りたりしも、是れ亦七時頃に至りて数十名の敵の手の為に奪取られたり。此の戦闘に於て荒畑、宇都宮、森岡、百瀬、村木、管野の諸君は錦輝館前より神田署附近の間に於て補われ、大杉、徳永、神川の諸君外国語学校附近に於て拘引せられたり。佐藤君は海松の如く裂かれたる衣を纏いて神田橋方面に長躯せしが、其処なる非常線に羅りぬ、堺、山川、大須賀、小暮の諸君は徐々に神保町通りを引上げ来りしが又一ツ橋派出所附近にて敵の手に落ちぬ。吁万事窮す、百余の同志は活路を求めて思い思いに落ち延びたり。

………………越えて24日我勇敢なる同志の14名は、治安警察法違反、官吏抗拒、殴打創傷罪の名の下に検事局に押送され、今は東京監獄獄裡の囚人となれり。

 ………東京社会新聞社の諸君及基督教社会主義者の諸君は錦輝館楼上に在て、我が同志の戦闘を傍観し最も慎重の態度を執られしより此厄を免かれ給いしこと、終始警官の慰撫に力めたりし故を以て堺、山川諸兄の逮捕されしことなり。

 捕縛されし同志の姓名左の如し

 堺利彦、山川均、大杉栄、荒畑勝三、宇都宮卓爾、森岡永治、徳永保之助、佐藤悟、百瀬晋、村木源次郎、管野須賀子、大須賀里子、神川松子、小暮礼子

 『熊本評論』26号 1908.7.5 発行 二面掲載