1911年 新村忠雄、獄中手記

1911年1月13日

 新村忠雄、獄中手記

▲午後寒くなって冷えるので寝て本を読んで居ると面会だ。赤い紙だから弁護士だと言われた。▲行って見ると半田一郎君だった。

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▲拘引以来はじめて人にあったのだ。饒舌りたい事許りだったが、冒頭にいろいろ注意があったので残念ながら別れた。▲半田にあったので、いろいろの記憶が鮮かになって来た。どれだけ出てくるか一つ引張り出して見よう。▲神を疑い神を否定する様になり、且つ宣教師や牧師の正義に反した行動を指摘し、彼等の行為は各自の口にする神の言葉にすら違って居ると非難をして居った時に、丁度東京では電車事件が起って多くの同志は獄に投ぜられた。而てその中には戦地から帰って除隊になった許りの半田と云う同県の同志も加わって居るとの報に非常に刺激されたあの39年の春、自分はクロポトキンの『無政府主義の哲学』を読んだ。▲此の哲学を繰返して読んで居る中に、年は暮れて1月には幸徳・堺は日刊『平民新聞』を発刊した。その頃煙山専太郎の『近世無政府主義』を買ってうれしく読んだ。九津見蕨村の『無政府主義』よりも多くを教えられた。▲2月には足尾の事件があり、社会党大会の記事は起訴される。『青年に訴ふ』もやられる。幾人も起訴された。4月に新聞は廃刊された。▲此等の事件と日刊『平民』とは従来の社会党の主張や政策の価値なき事を教えてくれた。自分は一層熱心にアナキズムの本を繰返して読んだ。

↓★2004.3.17入力

▲其頃同志間に直接行動と議会政策論が熾に論ぜられた。自分は直接行動論者だった。而して自分の地方で自分は無政府主義者だと明言した。足尾事件で入獄した西川が帰ると『社会新聞』を発刊して議会政策を主張し、6月森近は大阪で直接行動の伝道の目的で『大阪平民』を発刊した。▲其頃半田と信書の往復をはじめた。夏期講習に一所に上京を約束した。▲7月29日の午後零時半屋代発の汽車で上田停車場についた時、合図をすると「僕半田です」と洋服の有髯の士が入って来た。▲『社会新聞』に行って聞くと、自分達の指定宿所は本郷福山町に居る竹内余所次郎の宅だと言われて、人力車で遅くなってから竹内を驚かした。其所は千葉の同志青山正右衛門と自分達三人の宿だ。▲竹内は石川県人で、札幌に薬剤師として一家を持って居るのだが、消費組合をやると云うので一人上京して居ったのだ。未だ『万朝報』の記者をして居った秋水が、理想団の遊説に北海道に行った時、最初の週刊『平民』の計画を秋水から聞いたその頃から社会主義を知ったと云った。彼も西川等と内村鑑三の門に集って神の名を賛美したものだ。▲渡米して加州のフレスノで渡辺代三郎と赤羽一と三人で新聞をやった時の話もした。▲彼は体格の良い肥ったユッタリしたいつもニコニコした長っ話の男だ。▲翌日大久保の秋水を訪づれ、帰途三崎町三ノ一社会新聞社へ立寄った。家は片山の居るキングスレー館だ。前は日本大学だ。▲片山・西川・吉川・松崎・神崎等の諸君にあった。其夜千駄木林町の西川を訪づれた。児玉花外も居った。毎日半田・青山と倶に社会新聞社へ行って地方から出た同志と会し、一団となって東京同志訪問を仕事にした。其時出京の地方同志は永井徳弥(福島県人)・成井千代三郎(茨木)・青山(千葉)・築比地仲助・長加部寅吉(群馬)・池田(山梨)・金原醇一(静岡県)・深尾(大阪)・土佐の一同志と半田と自分だった。此の中で廿一歳の自分が最年少者だった。▲卅一日の夜竹内に伴われて柏木へ行き、堺を訪づれ幸徳へ行き、次に福田女史を訪づれた。竹内が社会党の婦人はだめだと言うので、男の同志は如何で御座ると女史の大気焔に竹内も沈黙した。竹内が例の長っ話をした為め、最少しで最終の電車に乗損ずる処だった。▲8月1日夜から九段のユニバーサリスト教会堂で講習が開かれた。道徳論(秋水)婦人問題(堺)マルクス資本論(山川)社会主義史(田添)ストライキの話(西川)労働組合の話(片山)、以上の講演があった。…

▲6日に淀橋の十二社で園遊会を開いた。…▲此時は分派問題が熾になって来た。『社会新聞』のだ大部分の諸君は、電車事件の入獄者で…

▲地方から来た人の中で、半田は感情を加味した議会政策論の代表で、築比地が直接行動の代表者だった。…

▲…

▲地方同志は一団となって、8月2日から毎日日を定めて、幸徳・堺・山川・福田・西川・田添・片山と順序で9日頃までかかって歴訪し、意見を叩き友情を温めた。…

▲実際に伝道する人達は『社会新聞』の方に多いが、揃いも揃って議会政策論者で、……………吾はアナキストたというてその主義その哲理を充分語ってくれる人が居らなかったのだ。▲9月から10月にかけて、分派問題は感情を持って破裂してしまった。10月半の『社会新聞』は殆んど全紙をあげて汚い攻撃をした。此の時幸徳・堺の態度と『大阪平民』は実に立派だった。……………………

▲地方でもそれそれ同一の調子で論があった様だ。…

▲半田は蓄音機を持って遊説して居った。…9月県下の同志と会合をする相談を半田として…………会合の目的は失敗した。

(12月8日)屋代の寄席を借りて政談演説…………聴衆三百人と少しあって一人にチラシを与えた。翌日自分等三人は山田村と言う処の同志へ行った。41年の1月から丸茂・山口・青木・宮本の諸君と相談して毎月一日研究会を長野で開く事にした。会は信濃社会主義研究会と云った。

▲山口君は主義者と云うより、…

▲青木君は資本家経済学に囚われて居って、議会政策論者だ。…

▲2月の例会に片山が…

▲3月は8日に宮本の居った会社で開いた。大変雪が降ったに係らず、青木と半田とは三里もある処を青木の家から来た。…

▲それから半田は屋代へ来ても寄らず、…

▲9月自分の町の小学校の人達と少年少女会を毎月開く事にし…

▲その半田にあった。本日は、只だ只だ意外の感に…

▲半田から「君は以前と変って居ない」…

▲更に自分は社会の多数の人が此の寒空にどんなに困って居るだろう。…

▲半田は上田から東に距三里半の傍陽という山村で多少の…

▲彼は諸方面に経験のある男だが、まだ徹底した生活はして居らぬ。…

▲夕方堺(9日附)・吉川(10日附)・さわ(8日出)、ハガキと手紙が来た。

▲さわ、之は自分の数ある従兄弟姉妹中の最年少者だ。…

▲自分達の従兄に六十になんなんとして居る古物も居る。…

▲堺さんのハガキに秋水に面会した事がある。…

▲半田に言ったと同一事に対して済む済まぬもあったものぢゃない…君等に感謝すると。

▲吉川君のハガキ、此の一枚のハガキはいろいろな事と思わせるものはない。小説を読む如く、或はかつて読んだ思想史や運動史の中の一節の様な気がする。