1908年 赤旗事件第二回公判荒畑寒村証言「大杉栄と共に暴行を受ける

1908年8月22日

堺利彦証言、荒畑寒村証言「大杉栄と共に暴行を受ける」

『熊本評論』30号 1908.9.5発行

赤旗事件公判筆記(承前 金曜社旧同人筆記)>

公判第二日 8月22日 一面三面五面

一面 

午前……検事の論告………

 8月22日午前9時東京地方裁判所に於て古賀検事干与、島田裁判長により開廷、朝来より傍聴席に押寄せた来りし群集は約四百名と註されり。前回は法廷なりしかば、此の日は控訴院第一号大法廷にて開廷さる、群衆中には麹町署等より派せられたる刑事巡査多数傍聴し居たりき。14名の被告人は例の如く元気なる面持にて、微笑しつつ入廷せり。

管野、再弁明、「……予審調書には全く跡方もなき事を羅列せり。然も其事たるや到底、病身の自分には出来難き犯罪事項なり。自分が社会主義者なるの故を以て罪の裁断を受くるならば、甘んじて受くべし。然れども、巡査の非法行為を覆わんが為めに、犯罪を捏造して入獄を強いんとならば断じて堪ゆ可らず」云々

人大杉保子君、事件当時の訊問を受く



午後 弁護士及被告の弁論

四婦人の弁護士井本常作氏の弁論あり曰く「…無罪の判決を与えられん事を乞う」……………

卜部喜太郎氏の弁論あり

「本件は社会党員と巡査の旗取りに初りて、又旗取りに終れりと云うべし。至極事件は簡単なり。既に被告等は赤旗の掲揚に対して、禁止命令に接せずと云い証人の巡査十三名も何れも禁止命令を知らずと云う、唯だ一名大森巡査が禁止命令を発せしと云うも真偽疑わし。先刻証人に喚問されし横山巡査は、兎角神田警察署を代表して証人に出廷せしならんが、予審廷とは全く相違せる不得要領の証言をなせり。……

 兎に角被告等が錦輝館の門を出るや、巡査の如き帽子を被り、巡査の如き制服を着け、然も巡査の如き洋剣を吊りたる一隊の暴漢、突如として現われ出で、行きなり被告等の所持せる赤旗を奪取せんとせり、被告等は大いに驚きて是と極力争いしも多数の為め遂に敗北して警察署へ引き摺れ行かれたりとせよ…

堺利彦「検事の論告に依れば、被告は社会主義者なるが故に厳罰に処せよとの請求なりしが、若し、社会主義者なるが故に罰せらる可きなれば、被告等は甘んじて刑に服すべし。然れども法律には『社会主義者となるものは罰すべし』と云う名文も見受けず。……被告の考える処に依れば、無政府主義社会主義も、其の内容に依って同一なりと思う。或者は便宜上社会主義と云い、或者は無政府主義と云う。然るに内容に論及せられずして厳罰に処せよとは奇怪の事なり。日本の文壇に於ても既にニイチエ、トルストイ等の無政府主義の思想伝播せられ居れり、若し内容を究めず『直に無政府主義』という語を罰す可くんば、是等文壇の作者も罰せられざる可らず。

堺君は更に

「検事は、余が旗の製作及持込みに関係せしが如く論告せられしも、其の論告たるや如何にも窮せられたる論告なり。彼の『革命』なる旗は余の宅に保存しありて由緒ある旗なりと云われしも、余は彼の旗の製作にすらも関せず、若し由緒ありとせば、其は余の六歳に成る愛児が、常に大道を携え歩きて、何等故障なく警官の前を通過せりと云う由緒を有するのみなり。亦検事は神川マツ子君が、仲裁と称して旗を奪取せり、と論告せられしも、実際仲裁と云う事は、今日迄?々行われ居たるなり、現に山口義三君を上野停車場に迎えし時の如きも一大騒擾ありて、石川三四郎君が警官と同志の間に絶えず仲裁の労を取られしは事実なり。……」

次で寒村、荒畑勝三君は立てり、曰く

「…判官諸公、巡査の証言に依れば、三本の旗が一時に錦輝館の門を出で、一時に禁止命令を受けしが如くあれどもも、全く虚言なり、……………余等が神田署に引致せらるるや巡査の態度は俄然として一変せり神田警察は吾等を便所に行かしめず、食事をも供給せず。茲に於てか吾等は巡査を罵倒せり、同じ平民階級に在りながら、其の味方を苦しめんとする各巡査等は、一人一人吾等を引出して殴打し、若くは頭髪を引張れり、殊に彼等は大杉君を引出して両足を持ちて床上を引き摺り、長き頭髪を引張て頭部及び各所に数箇所の負傷をなせしめたり、大杉君は是に対して医師の診断書を求めたり、然れども警察医は宜し宜しと答えたるまま遂に診断書を与えざりき。裁判官!斯くの如きの暴力に抵抗したるの故を以て罪に問わるべくんば、余は喜んで罪に服すべし』悲壮激越の調、満廷を圧し、声涙共に降るものなりき。」