2006-01-01から1年間の記事一覧
大久保百人町、大杉方、大杉栄「今後シンヂカリズム研究会を自宅において開催」 平塚明子、木村駒子、宮崎光子等とも協定
1905年 8月2日 幸徳秋水 獄中生活報告書「柏木より」執筆 週刊『直言』8月6日号掲載
午前5時頃 布施宅の奥10畳の間に置いた金子文子の遺骨を警官が取り囲む中、同志が運び出す、警察は池袋、自我人社を包囲して中西らを検束遺骨は下落合の旧自然児連盟の椋本運雄方にあることが判明、押収し池袋署に保管
『労働新聞』4号で終刊、「発禁処分が続いた」新聞紙法違反で 久板卯之助、5ヶ月、和田久太郎、10ヶ月の禁錮刑
平民講演会 大杉栄ら出席小石川水道端町佛蘭西文学研究会場 <参会者は大杉共20名、荒畑は「日本に於ける労働運動」 大杉栄は「個人主義の進化」と題し講術 大杉は附言せり> 「荒畑が唯今労働運動の経過に於て同盟罷工の事を話しましたが僕は之は社会主義や…
碑文谷帝友館に於てサッコ、 ヴアンゼッチ両君の釈放演説会をした。 『黒色青年』11号 1927年8月5日
新山初代、洪と二人で大杉栄を訪問。翌日の黒友会の研究会への講演依頼。「都合が悪いというので6日私宅に来て講演をして貰うことに決めてきました」
1923年4月17日 大杉栄よりの林倭衛宛手紙 「きのう高等課へ行くと、金曜日に警視庁へ廻してあるから、今からすぐ向うへ行くといい、たぶんもうできているだろうから、と言う。喜んで行って見ると、まだだ。……きのうはその帰りにゴリキーのEngagnant mon Pain…
1922年4月15日 『労働運動』4号発行 <革命の研究1> クロポトキン 大杉栄訳 <被告学秘訣> 大杉栄<ソビエト政府無政府主義者を銃殺す> 大杉栄 <エマとベルクマン 1922.1.7> 大杉栄訳<久板君追悼>堺利彦、<性格の異彩2>久太
1914年4月14日大杉栄、坂本清馬宛に手紙発信。16日に坂本は手にする。大杉栄は<坂本の姉が心配しているとして司法省に谷田監獄局長を訪ね、局長と典獄から二件の許可を得る。<書籍差入れを大杉が受持つ、坂本からの書信は交互に大杉栄と坂本の家族に発信す…
1927年4月10日 《朝鮮自由》関東自連第2回大会に向けて「朝・日労働者共同戦線の件」を提案
1909年4月9日 幸徳秋水、管野須賀子ら『自由思想』の出版届けを出す
1920年4月8日 大杉栄と長女魔子、和田久太郎外2名と共に来神賀川豊彦を訪問1925年4月8日 古田大次郎、獄中手記「自分の死ぬ事は他人には言はれたくない」
1918年4月7日 <状勢>小池潔は中村勇次郎と共に上京し同日、大杉栄の主唱に依り開催したる露国革命記念会に出席 官憲資料
1925年4月6日 古田大次郎、獄中手記「ドストエフスキーの小説にある。いつも文章の下手なのを悲観してゐる。有島武郎氏は死ぬ前に一度秋の空を見たいと言つたさうだ」1926年4月6日 中浜哲、山崎今朝弥宛の手紙で面会がないことを明らかにしている。「大阪のA…
1923年4月5日 大杉栄、「日本脱出記」を書き上げる。後に近藤憲二が『日本脱出記』に編集収録。1925年4月5日 古田大次郎、獄中手記『死の懺悔』の記述に月日の記入が入り始まる。 「自分はたしかに空想児である。そして今は死を空想してゐる。」1926年4月5日…
1920年4月3日、4日 黒耀会第一回作品展覧会
1932年4月3,4日 農青社非合法グループ、星野、望月、和佐田、八木、小野検挙<資金活動>第二次検挙 非合法グループ壊滅
1916年4月2日 平民講演会 牛込横寺町芸術倶楽部、午後7時、出席者は大杉栄の外12名(内未編入者4人)、「バクーニン」の経歴に関し講演、10過ぎ散会 (官憲資料)1919年4月2日 労働相談部茶話会、大杉栄出席。吉田一方にて開催。
1919年4月1日 <状勢>北風会例会の席上久板は「如何に千万の労働組合を作るも無政府主義の自覚なき組合ならば革命に何等の用を為さざるのみならず革命の機を失わしむるものなりり云々」と述べたり1920年4月1日 午後7時より服部浜次主となり神田錦町貸席松竹…
1940年3月31日 文成勲、李宗文ら朝鮮人アナキスト組織の再建を企図して会合「日本の敗戦時国内の混乱を好機としてアナルココミュニズムの理想社会建設のため蜂起、これを準備するためアナキストを結集して組織再建を決定」
1924年3月30日 中浜哲逮捕される。活動資金確保のため、大阪に戻った中浜は、リャクを行い、実業同志会事務所から出たと ころを恐喝犯として伊藤孝一と共に逮捕される。倉地、逸見吉三も同行していた。
1912年3月29日 大杉栄、鎌倉より転住。東京府下大久保百人町352に移る1927年3月29日 福田大将狙撃事件に関連して東京の豊多摩刑務所に収容されていた。逸見吉三君は去る3月29日無事出獄した。
1920年3月28日 大杉栄、午後8時より自宅に同志服部浜次外8人を招き出獄祝いの小宴を開催1923年3月28日 大杉栄書簡林倭衛宛「……ヴィザの方 は、きょうのパリからの手紙によると、警察の証明がありさえすれば、貰えそうな形勢だ。…うまく行って出発は来月の10…
1910年3月27日 新村忠雄、明科の宮下太吉宅に再び泊 まる
1926年3月26日飯田徳太郎、母親、不逞社の同志、市ヶ谷刑務所に朴烈、金子文子に面会に行く 「朴烈と文子とに死刑の宣告のあった翌日、三月二十六日の正午頃、僕は市ヶ谷刑務所の面会人控室横手の、砂利を敷きつめた庭で、暖かい陽光を浴びながら、同じく朴…
1926年3月25日 金子文子・朴烈への大審院有罪判決、死刑……被告朴準植は日韓併合の真相を解せず被告金子文子は矯激なる偏見に囚はれ肯謀りて畏くも 皇室に対する大逆事犯を企画し因て以て光輝ある我国史に一大汚点を印したる其の罪責は極めて重きものと謂はざ…
1911年3月24日 同志茶話会が開かる。神楽坂倶楽部。 大杉栄出席 「春三月縊り残され花に舞う」 の句を読む
1920年3月23日 大杉栄、午前7時10分同志近藤憲二外の出迎えを受け市内電車にて9時50分本郷区曙町13番地へ帰宅せり 1920年3月23日 <出獄の辞>大杉栄 『労働運動』5号掲載1926年3月23日 金子文子・朴烈、結婚届けを出す。この届けは死刑判決を前提とし、二人…
1906年3月22日 大杉栄、東京監獄に移される 1910年3月22日 平民社を解体、幸徳秋水、管須賀子湯河原へ赴く