1925年 古田大次郎獄中手記 1926年 布施辰治弁護士、栗原一男ら金

1925年 7月30日

 古田大次郎「獄中手記」より
「外へ運動に出た時、つくづく生きて居たいなと思ふ場合と、さうでなく、案外生に冷淡な
場合と二つある。今日は何故か、大変、生きている歓びを感じた。…僕はいつまでもいつまでも、この美しい世界に生きていたくなつた。
 矢張り、僕は朝より夕方の方が好きだ。」

1926年 7月30日
 布施辰治弁護士、栗原一男金子文子の遺骸発掘
「卅日午後三時四十五分赤羽発列車で同七時栃木町に着いた文子の同志栗原一雄、古川時雄及び実母きく、布施弁護士、馬島医師等が前田支所長に死体引取の交渉をしたが埒明かず同夜十時布施、栗原、古川の三氏は自動車を宇都宮市に駆つて吉川同刑務所長に重ねて交渉した結果同夜十一時同所長より引渡を許され実母外数氏は人夫六名と共に栃木町を距る一里、下都賀郡家中村合戦場共同墓地に至り同十一時四十分から死体発掘に取り掛つた疑問に包まれた『妙文』の卒塔婆の下、文子の死因は?斯くて馬島医師は仔細に検診する事になつた」7月31日『読売新聞』