2005-01-01から1年間の記事一覧
1924年11月25日和田久太郎君らの接見禁止解除 『労働運動』7号 1925年1月1日 「消息」
1920年11月24日黒耀会第二回作品展覧会二日目 会場、伝馬町、星製薬七階
1919 11月23日 大杉栄、労働同盟会例会 高田公三入営送別会に出席
1910年 11月22日 エマ・ゴールドマン、ニューヨークで「幸徳事件」への第一回抗議集会を開く、数百名が出席 「ニューヨーク・アピール」を採択、 1938年11月22日萩原恭次郎、病死 午前零時15分、溶血性貧血(胃病)にて死亡。享年40。翌23日葬儀。 http://ww…
1922年 11月21日 大杉栄、有島武郎にヨーロッパ行金策の電話をかける
1912年 11月20日 大杉栄 <大久保より> 「今日はミカドのお帰り遊ばす日、半日検束」 『近代思想』12月号 1922年 11月20日 大杉栄にフランスのアナキストから国際大会への招請状届く
1912年 11月19日 大杉栄<大久保より>「先月の末に寒村と横浜へ、そして偶然浜辺を散歩してるベルギーの紳士と支那の淑女とに出会った。二人ともソシアストだ。紳士はセンデカズムの事などを話す、淑女は張継の消息などを聞かす……」 『近代思想』12月号(調…
1923年 11月18日 大杉栄没後の善後策打合会 司会者近藤憲二、 村木、和田、山崎、岩佐、布施、江口、延島、山本実彦(改造社)北原鉄雄、坂口貫一(アルス社) 労働運動社 7時開会10時閉会 「遺児に関する件、労働運動社の支持」
1922年 11月17日 大杉栄書簡、伊藤野枝宛 「……久公の奴、僕等には何にも白状しないんだから、その手紙を送ってくれ」
1913年 11月16日 大杉栄、シンヂカリズム研究会に出席。談話「萬朝報の華山の論への批評」
1924年 11月15日 難波大助、処刑難波の遺体を引き取りに出向いた、自然児連盟の山田作松、横山楳太郎、荒木秀雄らアナキストが検束される
1922年 11月14日 大杉栄書簡伊藤野枝宛「少々疲れて、一昨日と昨日とは寝てくらした。といっても、ただ時々横になるだけで、いろんな奴に邪魔されて閉口した。きょうは仕事を始めようと思って、朝、机に向かうと『日日』の宮崎が来る。続いて三、四人やって…
1919年 11月13日 大杉栄ら『労働運動』第2号発行
1910年 11月12日 幸徳秋水らへの大逆事件 エマ・ゴールドマン、ヒッポリート・ハベルら5名のアナキスト・自由思想家が駐米全権大使内田康哉あてに講義文を送る、これを機に全米、ヨーロッパにおいて抗議行動が広がる
1918年 11月11日 欧州戦乱休戦条約成立、大杉栄は次の如く語たれり 休戦条約の締結……独逸革命は至極平穏に行われたり……真正の革命と……到底労働者階級を満足せしすること能わざるべしと思惟す而してリープクネヒト等一派の過激思想……一方労働者は既に自覚し居…
1908 11月10日 宮下太吉、東海道線大府駅での天皇の見物人に『無政府共産』を配る、公然たる反天皇宣伝
1919年 11月9日 大杉栄、労働同盟会(一名北風会)に出席
1922年 11月8日 大杉栄書簡伊藤野枝宛 「きのうは青年会館で、大島製鋼所の連中の、官憲横暴弾劾演説会というのがあるはずだった。それには出ないつもりで、おとといこっちへ(鵠沼海岸)来たのだが、きのうの昼すぎになって急に行って見たくなったので、魔…
1913年 11月7日 大杉栄、山本飼山の葬儀参列 荒畑寒村による<大久保より> 「大杉が器官を悪くして……7日、大杉、堺、橋浦、二郎、僕、それに故人の親戚友人10人ばかりで、山本飼山の遺骸を落合の火葬場に送った。…僕等5人だけ分れて、帰途、焼芋屋へ上がり…
1925年11月6日 望月桂、近藤憲二、秋田刑務所の和田久太郎に面会。
1926年 11月5日 金子文子の遺骨、朴烈の故郷の山中に埋葬
1927年11月4日『黒色青年』14号「東北黒色青年連盟演説会」 10月31日、我等は結盟の日を機とし、自由連合組織、無政府共産主義に就いての演説会を開催した。 関東黒色青年連盟よりは10数名の同志が応援し、黒旗は奥羽の空に北風となびく。 我等が絶叫の足跡…
1908年 11月3日 宮下太吉、内山愚童制作『無政府共産』50部を郵送で受け取る 1909年 11月3日宮下太吉、明科で爆裂弾を試爆
1912年 11月2日 大杉栄、同志茶話会に出席 堺方1913年 11月2日 大杉栄、シンヂカリズム研究会に出席。談話「シンジカリズムを論議したる書籍……」1916年11月2日 <状勢>「労働青年」創刊、……久板卯之助、渡辺政太郎の両名は一部同志間に於て大杉栄の主催せし…
1922年 11月1日 大杉栄ら『労働運動』9号発行 印刷人 近藤憲二(労運社住所と同) 主要記事 <革命の研究6>大杉栄 <編集室から>■逗子の家を引きあげる、社の二階の八畳で暫く親子四人がごろごろする。二人は九州へ立って了って、僕と魔子が八畳の主人。今ま…
1922年 10月31日 大杉栄伊藤野枝宛「おとといは宇都宮から自動車で五里あまりの真岡まで行った。20人ばかりあつまったが、ろくな奴一人いないのでがっかりしてしまった。きのう帰ると、留守に来た改造社からの使いがまた来る。12月号の論文を至急書いてくれ…
1914年 10月30日 大杉栄、『生の闘争』新潮社より刊行 第一評論集
1911年 10月29日 大杉栄、同志茶話会に出席。 四谷区左門町13番地堺方「経済組織の改革と精神改革」の議論が起きる。大杉栄は「研究会と講演会の必要」「マルクス・エンゲルス『共産党宣言』」に言及 [調査書]
1916年 10月28日 官憲資料より 大杉栄……近来自己に対する警察側の処遇苛察に渉り諸事圧迫的の態度ありと憤慨し11月3日当日挙行あらせをるへき立太子礼を機とし何等か異常の行動に出て警察当局をして狼狽せしめ以て復習的手段に出つると同時に従来沈衰せる同…
1922年 10月27日 大杉栄 伊藤野枝宛書簡「きのう予定通り金がはったので、40円だけ送った。春陽堂でまた『相互扶助』の印税がはいったのだ。……きょうやっと雑誌の編集を全部終った。……久公といえば、おとといの晩ある会合で、怪しからんうわさを聞いた。それ…